【願望実現】世界は我欲でできている☆【我欲と仲良く】

旅するセクシー
響香です☆

 
 
目が覚めたら
「ああ…我欲なんだな」
という気分がいっぱいしていて
不思議な状態になっていた。
 

夢の中で
いつかのオフロードで出会った人に
海外のオフロードのことをあれこれたずねられていた…。
 
 
道無き道を冒険するのは
エロスもそうだし
自分の人生も同じこと。
どれもこれも
自分自身が「こっちに向かおう」と決めれば
そっちに向かうことができる。
 
 
 
世界は我欲で出来ている。
 
 
 
 
目覚めたばかりのぼんやりしたアタマでこの言葉が浮かんだ時
少し
それってすごいことね
って思った。
 
 
 
食欲や睡眠欲、性欲は三大欲求といわれていて本能的な生理現象に基づいている。
このへんの欲求っていうのは
「自分自身が安全に快適に生存するため」
にある欲求だ。
 
 
だれも食欲や睡眠欲を疑わないだろうし、してはいけない、と禁じることもないでしょう(修行僧とかは別)
 
 
 
 
誰のためでもない、ただ、自分のため。
 
 
 
では
「あなたのために」
という言葉を冠にされて行うアクションは
どんな欲求に基づいているのかな?
 
 
 
あなたのため
だれかのため
 
 
基本的に備わっている欲求には
他者の生存に関する欲求は含まれてないのです。
(性欲は、広範な意味としては、種を創造するという点で、他者が含まれてくるけど)
 
 
ここで私は
ぼんやりから覚めていった。
 
 
これもやっぱり
我欲がベースなんだよね。
 
 
 
なにかしらで
我欲なのよ。
 
ここで誤解されると困るのですが、欲望を否定する気持ちはもったことがない。
 
 
私は
欲望礼賛
なのです。
 
 
 
やりたいことをやりたいだけやって
ちゃんと欲求を満たそう
という信念
そうすることで
心身がヘルシーで楽しく生きられる、って思ってるの。
 
 
 
だから、
我欲でできてる世界、ということへの見解が出て来た今朝は
 
おー!すごいことになってきた(笑)
ってわくわくしちゃってるのと
空恐ろしいぞ、っていう恐怖と
 
両方な気分。
 
 
 
あれこれと
いろんな方向から思いを「我欲」にめぐらせているけれど
一向に「それだっ!」という回答が導き出されない。
 
 
「無償の気持ち」
 
無意識に突き動かされて、いつのまにか何にも考えることなく何かをしている時。
 
 
ここでストップしてくるくるしてしまうのです。
 
なので、「無償系」からはちょっと離れてみる」
 
 
 
 
我欲でできている。
大まかな世界は。
 
 
そのときは
「私がお腹減っている」という理由であれ
「あなたが心配だから」という理由であれ
なんであれ
どこかしらで必ず最後は
「我欲」に収束される。
 
 
「私はお腹減っている」は、文字どおり、自分がお腹ペコペコ、ってことで、自分の食欲で動いている。
 
私はお腹が減ってる→私の空腹を満たしたい
 
 
「あなたが心配だから」は、
「あなた」を心配している主体はあくまでも「わたし」ということが我欲にかぶさってくる。
 
 
あなたが心配→あなたに対しての心配な気持ちで「わたし」が落ち着かない→わたしは安心したい
 
 
仮説、だけどこんな感じかしら?
 
あれ…
デカルトみたいになってきた(笑)
 
 
 
デカルトは置いといて…
 
 
 
「あなた」を心配している主体が「わたし」である
 
 
ということは
その「心配」は「わたし」に帰属するわけ。
 
 
「あなた」は、ただ、「あなた」として存在しているだけで「心配」を発しているわけではない。
「わたし」が「心配」を持っている。
 
 
 
やーーーーーーーーーーーーーーーーーーー😱💦💦💦
 
 
シンプルな結論に至る見込みが出て来たけど
こいつは言葉がめんどくさくなってきたぞ(笑)
あんまり飛び石つくると混乱するね。
で、どこに至るかというとこれは
願望実現だな。
うん。
 
我欲のありかを、きちんと常に「自分」においていたら、すんなりと、楽しくって気持ちいい人生になる。
 
 
 
「心配」を例にとったんだけど
私って、
なんでもかんでも「心配」とか「大丈夫なの」って言うことだけを言って来る人って
不毛、って思ってたの。
 
人によっては
「せっかく心配してくれてるのに」
ということを言う人もいたけど、
「ただ心配」しているだけって、無駄じゃない?
 
それよりも、本当になにかを思案しているのだったら
「これよりもこっちの方が安全じゃない?」とか
「こっちの方が良くなるよ」という風に
具体案を出すことの方がはるかに良いと思っているの。
 
ただただ心配しているだけを人に向けて来る人って
時として
その心配とか不安で巻き込んで来るんだよね( ̄▽ ̄;)笑
 
 
たとえば、です。
 
すぐに距離をおけない状況で
「心配」さんと一緒に、とあることをしにいくことになった。
「大丈夫」さんは、これから行おうとしていることに対して、
なんら心配を持っていなくって「大丈夫〜(*´∀`*)」って思っているとする。
 
かたやお隣にいる「心配」さんは
心配が強いから、これから行おうとしていることに対して「心配だ心配だ」と繰り返している。
 
「大丈夫」さんが、
「心配さん、なにがそんなに心配なの?」とたずねると
 
「これこれこうがこうなったらどうしよう」と答える。
 
それに対して「大丈夫」さんが
「あはは、大丈夫だよー。そんな時はそれそれそうであーでそうするから」と答えると
「心配」さんは、
「そうか…でもそうなったらあっちはどうなるの?こっちはそーであーでも、またあっちがどーだこーだ…」
という感じに
手を替え品を替え「いろんな心配」を引き合いに出して来る。
 
そんなこんなで道中、「心配」を一向に手放す気配がないし
新しい「安心」を見つける気配もない。
外側の素敵な風景も眺めることができていない。「心配」に目が向いているから。
 
これが、極端になると
「心配」さんの「心配」な言葉がだんだん耳障りで煩わしくなってきて
それに引っ張られて起こさなくても良い事態を引き起こすことになる。
 
 
こういうことって
日常である気がする。
 
 
たぶん、
たとえ話で出したような人は
心配だから、1人だったら、そのことをしないだろうし
できることなら、その場でも
「そんなに心配なら帰ろうか」というようなことを言われたい、のかもしれない。
 
思っているのは真実なら、それは良いですが
感情にまきこまれていて
我欲がおかしい方向に突っ走る。
 
 
で、
この言葉をひたすら発する人は
いつまでもいつまでも「相手のため」だと信じ込んでいるケースも多い。
なんのことはない、
「自分が心配を持っている」というだけ。
 
極端なたとえ話だけど
「心配」さん、にもちゃんと役割があるから「心配」という感情があるので、
なくせばいい、というものではない。
 
「心配」さんが、「心配」を感じたら
「なにがどうなったら心配じゃなくなるの?」っていうことを見ていけば
心配の源は、安心に変えられるはず、なのです。
 
どの感情もわいてきたら、まずは
 
1:感じていることを理解して受け入れて
2:それが何を伝えているか(なにが心配なのか、どうすれば心配じゃなくなるのかetc)
 
そうすると、
むやみやたらに「怒ってはいけない」とか「憎んじゃダメだ!」って決めつけることとかがなくなって
「怒りを感じるにはなにかあるんだ」と
「憎らしいのはなぜだろう?」という風に
原因を見ていくことができる。
それがわかれば、日常に生かしていくことができる、というもの。
 
これが感情と仲良くすること。
 
そうすると
最終的には
「我欲」が、安心やリラックスで満たされて、「よかったー」って思える。
 
 
生まれてから人間として成長する過程で
多くの人に出会い
実に様々な意見や思考と出会う。
 
つまりは
どこまで行っても
それらの意見のベースは
それらを発している人にしか「帰属していない」ということだったのね。
 
これは簡単だけど、そうことは簡単じゃない、から世の中混沌とする。
 
 
 
人の我欲に自分の我欲が凌駕されることがある。
 
つまり「ぶれる」
 
 
それを書いている響香自身に経験があるのでこうやって書いている。
 
 
ぶれたんだもん。
 
自分の喜びや、楽しさを優先させないで
身の保全とかを選択したがために。
我欲が「人の意見を受け入れる」という方に置かれてるんだよね。
 
 
 
もちろんそれによって
何かの「我欲」を満たすため、ではある。
 
 
それは必ずしも
「心地よさ」や「楽しさ」ばかりではないんです。
不思議なことに。
我欲という「生きるための欲求」はそうそう馬鹿者じゃないので
どうしたら自分が生き延びることができるか、ということをベースに
我欲の方向を決めたり、行動を選択することがある。
なので、
「我欲」が選択する理由が
「ここで賞賛を浴びたい」→それによって自分の存在を認めさせたい
「みんなの意見にうなずくことにする」→それによって居場所を保ちたい
なーんていうこともあるわけ。
保身、です。
 
 
どういうこと??
人は思ったことを言うよ。
自由に発言し、その時々で思ったことを言うよ。
 
それは
昨日と今日と明日とで、全然違う意見かもしれないよ。
 
 
 
それに対して
たとえばだよ
「ころころ変わる!」って憤慨したとしても
それは「発言者の自由」なんだよね。
感じることなんて、ひとつじゃないから。
 
 
そしてね
憤慨する側の「憤慨すること」も、
憤慨している主体の自由であって
この人が勝手に「憤慨している」だけ
こうすることを「選んでいる」だけ。
 
意図してないと思うよ、だいたいは。
ココロのどこかで決めた「自分のルール」かなにかに合致しないことで
自動スイッチがオンされる状態。
 
要は、
なぜ、他者の自由な行動に対して、感情をかき乱されているのか?
 
 
ということ。
 
 
自分の好きなことを自由にやって
楽しく暮らしてる人とかに、これはたぶん、関係がない。
こういう人って、
人の行動に対しても、あれこれケチつけたり批判してくることって
けっこう少ない。
自分が自由であることで、人の自由も受け入れてるのか
まったく人を気にしていない。
 
 
だから、我欲がこじれていることに関係ない。
こじれてない。
 
 
東京のラッシュアワーで
満員電車に揺られて
朝から晩まで働いて
酒場であーだこーだと
会社や上司や後輩や世間批判をしたり
不満がなくならない人
このジャンルに属してしまっている人種に対しての純粋な疑問。
 
なぜ、自分を心地よくする方向に、我欲を向けてあげていないのか?
 
 
っていう疑問ね。
 
 
もし、「仕方ない」というのだったら
なぜ、仕方ないの?
我欲は自由に方向を決められるし、
居場所も選べるし
行動も選べるのに。
 
やるしかないんだから、というのだったら
なぜそれをするしかないの?
そして、
なぜ、自分で(我欲に基づいて)それを選んでいるのに、
つまらなそうな顔して不満や批判を言い続けるの?
いつでもそこから脱出できるじゃないの
 
っていうこと。
 
その辺がわりと純粋に疑問を感じるんだけど
ひょっとしたら、
その人種の我欲は
そういう表現スタイルが好き、っていうことなのかもしれないね。
 
だから、
実は本当の意味での不満を感じているわけでもないし
会社になんか文句が言いたいわけでもないし
そういう言葉遣いとか、スタイルなだけ、かもしれないね。
 
 
ということに至ったら
ちょっとだけすっきりした٩( ‘ω’ )و
 
 
 
なにをかくそう私のジャギ(母親)が、ずっと
不平不満がなくならないタイプで
なにをしても必ずケチをつけてくるの。
 
 
働いていた職場の同僚の人や
習い事の先生のこと
お家のお隣さんや大家さん、
はては主人(わたしの父ね)のこと…
 
 
小さい頃から観察していて
いっつも疑問だったの。
 
 
なんで「楽しい」とか「あの人たちほんと大好き」っていう話題が
ひとつも出てこないんだろ?って。
 
 
でも、
いまでもそういう傾向が変わらずあるから
性分なのでしょうね。
 
 
わたしには理解が難しいこともあるけれど
それが性分だとして
その本人がそれを選び、幸せ(を感じてるかどうかは知らないけれど)ならば
それでいいんだろうね。
 
「大変なんだよー」
「あの人たちほんと◯◯ねー」
「苦しいなー」
 
そう言ってても、ずっと同じなんだとしたら
その状況が好きなんだろうね。
 
私は、陰口や噂話や悪口を言う人とは距離を置くことにしているの。
これは小学生くらいのころに
クラスメイトのことをあれこれ言ってる女の子たちを見た時に決めたの。
 
「だれだれちゃんのことをあんな風に言う、ってことは、
わたしのことも言う人たちだろうな。
わたしは、そんな人たちと、友達でいたいとまったく思わないな」
 
それで、だったら、自分が心地いいな、と思える人とだけつきあえばいいや、って。
ちなみに、私は本人以外の人には言わない。
解決策でもないし、意味がないから。
関係ない第三者に伝えたりするときは、本人に同じことを最初に伝えている。
 
 
悲しいかな、私のジャギがこのタイプ。
いつなくなるんだろう、って思ってたけど
何年経ってもなくならないから
こういう性分なんだ!!!っていうことを悟った。
 
 
でもって、私はジャギから距離を置こう、と決めた。
その話を聞いても、気分がいいわけではなかったから。
わくわくしたいよねー。
しないもん、だれかや会社や世間への悪態って!
 
 
そしてこう言った。
 
 
「でもさ、何十年もおんなじことをずっと言ってるんだから
その状態がクセになるほど好き、ってことでしょ?
やめられないんだから。
よかったね、好きな人生歩めて(*´∀`*)楽しそうでよかったわー」
 
といったらキレられてー(笑)
 
「好きでやってるわけないでしょ!!!あんたってほんと、そういう人ね!!!」
 
 
だって。
私はぽかーんとしちゃった。
 
 
じゃあやめたらいいじゃん、その状態を。
自分で選んでいたんじゃないのか???はて…
 
そういう人ね!って言われても…はてさて、どういう人のどういうことをさしているのやら( ̄▽ ̄;)
私は相手の個性を否定もせず、それで本人が満足するなら、って思っているけど
勝手に気に障られて、一体どうしてほしかったのか。
わけわからず、こっちだってどうだっていいや、って思うんですが。
人にキレずにいられないほど、なにかを押し込めてるんなら、
早いとこそれ出しちまってくださいよ、って感じ。
たまにいる。
別のところでも、
それまで我慢に我慢をしてきた人で、突然怒鳴り出したりする人がいる。
 
(我欲がこじれて、「なにかをベースにした我欲」によって、
本当にしたいことじゃないけどしている、を選んでるっぽい)
 
 
さっきの「心配」さんのとこでも書いたけど
当然だけど、怒鳴りたくなる原因は、その本人の中にしか存在しない。
 
 
あんたにはわかんないわよ!という感じの言葉をとにかくよく使う。
 
 
 
わかんないよ。
当たり前じゃないの、別の人間なんだから、ねー。
じゃあわかるように説明してよ、と思う。
 
 
私はクールでもなく、
真実をわかりやすく知りたい人なので
相手がなにかを話せば理解できると思っている。
でもなにも言わないで、怒りの矛先が突然「チャンス!」とばかりに飛び出て来るとねー
ちょっと笑うほどひく。
怒りがあるならね、
怒りたくっても怒れなかった最初を思い出せばいいのよ。
それがめんどくさいなら、
もうそれは過ぎ去った時間のことだ、って
目を前に向ければいい。
 
ということで
 
世の中は
いろんな人の
こんがらがった我欲によって
成り立っている、と。
 
人の我欲に自分の我欲をのせてくる人もいれば
我欲をただ自分の我欲として突き進む人もいて
なぜか我欲に他者がからまって喧嘩腰になってくる人もいる(笑)
 
うまーいこと
自分の我欲の求めるものと
世界中の誰かの我欲が求めるものが一致したときに
我欲が満たされる
 
だから、我欲って、
押し付けできるものではないんですよ!
期待もできるものではない。
我欲と我欲が出会ってうまくいったら
双方ウィンウィンだね❤️やったね!
って感じ。
 
最終結論
 
 
人は人
私は私
 
 
人生一度だけだから
自分の我欲の責任は
自分できちんととりましょう
みんな、自分の我欲でいっぱいいっぱいです(笑)
 
 
 
 
 
 
楽しいことしてうきうき生きてよ(笑)
 
 
私は
「エッチなことが好きで、気持ちいいこといっぱいしたい❤️」
という我欲を生業として活動していて
それに対して
「いっぱいエッチに気持ちよくしてほしいな❤️」
という我欲の人のアンテナと引き合って
楽しいプレイセッションになる、ということ💋
 

高校生の頃、綺麗な青い髪にしたかったけど、当時はまだまだカラー少なかったし、できるお店も少なかった。
いまって、あれこれ簡単に楽しめて、そういうところは
ホーント
 
いい時代❤️
 
 
 
 
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